Ruru saizeria.

変わってしまう何か変わり続ける何か

「痛み」を見つめることに夢中だった

最近気づいた事を書く。

10代は「痛みをじっと見つめる事」に夢中だった。

日常生活からわざと「痛み」を感じとれる物を探した、復讐に燃える主人公の映画、現実を見せつけるような漫画、エッセイ。自分の中にある「痛み」を払拭したいと思う反面、「痛み」を忘れてはいけないという謎の気持ちがあった。

傷つくような事は進んでやっていったと思う。それは私が好奇心旺盛な事もあるけど、「痛み」を探していた。人が見ては「こんなもの見たくないよ」と顔を背けてしまうような事を自分は見なきゃいけないんだ、という強い脅迫感に包まれていた。

だからなるべく「痛み」を感じることを日常生活から探し、じっと見つめた。

だがここ最近「こんなもの見たくないよ」と言ってもいいんだという事にようやく気がついた。そう思えるようになって少し楽になった。

私はニュースなど見て毎日人が殺されている報道を見てしまうと頭がクラクラしてしまう。待合室か何かで他人とニュースを見ていると「みんなどうしてそんなに無関心でいられるんだろう」と考えこんでしまうし、殺人犯の心境を考えるし、被害者の気持ちも考える、親族の気持ちも考える。それは優しいからじゃない、「バカだから」だ。

考えることは好きだ、昔よく社会の先生に「疑問を持つことは大事だ」と教わってから私は様々な事に疑問を持ち続けてきた。でも、考えたって仕方がない事があると、言っても、思ってもいいんだと最近感じるようになってきた。

「見たくない」と思ったものは見なくていい、わざわざ自分から不快な気持ちになりにいくような事をしなくてもいいというのが20になってから少しずつわかってきた。

ではなぜ10代の頃、自分自身を「痛みを見つめる」ような事をして傷ついてきたのか、という疑問が頭の中に浮かんだ。

それは「見たくない」と言われることが多かったからかな、と思った。どちらかというと私は「見たくない」と言われる側だ。それは別に悲劇的なことじゃない、普通の事だ。でも「見たくない」と言われる側だからこそ「見たくないよ」と言われる人たちの気持ちがわかる、だから私は見なきゃいけないと強い使命感があった。

でもそんな事は必要な時にすればいい事だというのにやっと最近気づけた。

 

 

自分は好きな情報を摂取していいし、「見たくない」と言ってもいいんだ、そう思う。