読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Ruru saizeria.

変わってしまう何か変わり続ける何か

覚えてる?私のことを。

寝れないので文章を書きます。2017年は頑張るぞ!といって週2ですがバイトをはじめました。私がバイトをしているところはシェアハウスの3階にあり1〜2.4〜5と人が住んでいます。住んでいる人は殆どが知り合いでもう5年ほどの付き合いになる人もいます。なんとなくたまに顔を合わしたりしていた仲ですが、再会するとは何かの縁なのでしょう。私は朝5時半に起き、バイトに行きます。朝の電車は苦手ですがなんとかやっています。凡ミスばかりしてしまったり体調が優れなかったりしてお休みをいただいたりしますがバイト先の方が柔軟に対応してくれて助かっています。やはり私は寂しがり屋なのでどこか誰かに『認知』してもらえる場所に行くと嬉しいと心から思います。寂しがり屋だからと言って他人に依存したりしあったりすると無理が生じ私は大体めちゃくちゃになります。そうなると他人に迷惑をかけてしまい自己嫌悪に陥り、腕を切ったりしてしまいます。

 

「将来何になりたいの?」とか「やりたい事はないの?」とたくさんの人に聞かれるけど全然私にはまだわかりません。自分の好きなものや興味が持てるものを模索するので精一杯でその中で「やりたい事」なんていわれてもハードルが高すぎて混乱してしまうのです。

とりあえず「今できることを増やしていこう」と思いました。そういえばリストカットをして腕を16針縫って膀胱炎になりました。頑張りたいという気持ちが前に出すぎていて体がついてきてくれなかったみたいです。そういう自分とも折り合いをつけて行きたいと思います

自分なりに一生懸命だった、という事は相手に伝わらなければ意味がない

 

何者かになんかもうならない!

ライターになんてもうなれない!なぜなら学ぶ意欲がない。知識がない。

私が望んだものにはわたしはなれない。それでいい!

私が納得できるものであればそれでいい、しかしそれは一体なんだというのか。

キラキラしたい、その裏がドロドロの苦労に塗れていても。

 

人間仮免中 とその『つづき。』

寝れないので文章を書きます。

最近読んだマンガの事です。

 

 卯月妙子さんの漫画「人間仮免中 つづき」を読みました。この本は「人間仮免中」の続編です。

 

人間仮免中

人間仮免中

 

 

あらすじ

 

統合失調症を患う漫画家の卯月妙子。20歳で結婚したが、夫の会社が倒産、借金返済のためにホステス、SMストリッパー、カルト系AV女優として働くが、その後夫は投身自殺。幼少の頃から悩まされていた統合失調症が悪化し、2004年には出演していたストリップ劇場のステージ上で自ら首を切り救急車で運ばれる。

入退院を繰り返しながらも、女優として舞台などで活動を続け、36歳にして卯月は25歳年上のボビーに出逢い恋をした。ケンカしながらも楽しい生活を送っていたある日、彼女は統合失調症を抑える投薬を怠り、歩道橋から真っ逆さまに飛び降りてしまう。

すべてを乗り越え愛し合うふたりの、奮闘する日々をユーモラスに描いたノンフィクション自伝エッセイ。(wikiから)

 

2012年にこの『人間仮免中』を読んでとてもつらかった。そして感動して、その思い出は私の中で面白いものになりました。卯月さんの病気の症状は私と似ていて、処方されている薬も似ています。この漫画を読めばうつ病統合失調症などに理解ができない人でも「少しはわかってもらえるかも」、と私は友人に薦めましたが感想は「いい本だった。ところで君は就職しないの?」という答えでした。

2016年にひっそりと(なんかひっそり出たよね)『人間仮免中 つづき』には誰もが忘れてしまう事が書いてありました。

生きている事というのは元々尊く、それを私たちは忘れてしまいがちで思い出そうと自分を痛めつけたり、怖い映画を見てみたり、遠くへ旅行したりして自分の存在と生きている尊さを少しでも思い出そうとします。そして自分を無理やり奮い立たせ、現実にかえっていきます。

『感覚』というものは皆で共有できたりしないものだと思います。しかし、卯月妙子さんの漫画には「ああ、この人が生きていてくれて良かった」と思える事と統合失調症の人が見ている世界の現実が感じ取れます。それはこのマンガを少しでも気になって本屋で手に取り、買って読んだ人にはわかることだと、私は信じています。

「あの作品はとても読んでいて辛いので読めないんです」という人もたくさん友達にいます。でも私はつづきを読んでほしいと思いました。

Twitterには「とても希望に満ち溢れた作品だ」と書きました。素直な気持ちです。『死』というストレートなものに直面した時私たちは本来の姿を現し、それは時に獣のようで化物のようなものだと思います。でもなぜでしょう、私はその姿にとても感動を覚えて「もっと見たい、読みたい」と思うんです。『人間仮免中 つづき』はそんな私を感動させ面白がらせる作品でした。

 

あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡

 

 バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡を見ました。


【映画予告編】バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

あらすじ

リーガン・トムソンはかつて「バードマン」という大ヒット映画でスーパーヒーロー・バードマンを演じたスター俳優だった。しかし、シリーズ終了から20年ヒット作にも恵まれず、家庭にも失敗し、仕事も家族も失っていた。失意のどん底から這い上がるためリーガンはレイモンド・カーヴァーの短編小説「愛について語るときに我々の語ること」を舞台向けに脚色し、自らの演出と主演でブロードウェイの舞台に立つことを決意する。しかし本公演前のプレビュー公演直前に1人の俳優が怪我で降板してしまう。その代役として、ブロードウェイで活躍するマイク・シャイナーが選ばれる。そのマイクの才能にリーガンは次第に追いつめられていく。そして本公演が始まる・・・

以下ネタバレが含まれます。思いついたことをダラダラ書きます。

 

 

 

 

 

 

 

 初めこの作品を見終わった時にナタリー・ポートマンが出ている「ブラック・スワン」を思い出した。どちらの作品も「舞台を演じていくうちに自分の置かれている状況が舞台の内容と似ていく」という所で思い出したのだと思う。

リーガンは「もっと」を求める。もっと評価されたい、もっと褒めて貰いたい。彼の中で『褒められる』以外の言葉は自分が評価されていると感じないのだろう。私は人に見てもらうというのは良いことも悪いことも言われることだと思う。リーガンにとっては違う。

あと生きて体があって、「存在していない」という意味はどういう意味だろうかと考えた。

心理学に認知療法というのがある。自分がやっていることを理解し、それが「良い」「悪い」と決めつけるのではなくグレーゾーンのものもあり、その基準を自分で決めて問題が起こった時にどう対処するか考える、そういう治療法。大体の人が自分の行動を「認知」しているのだけど、うつになったり私のような人間だと自分というものがあいまいになってしまう。なので確認作業が必要になる。

つまりは自分と向き合い、現実を見つめるという事なのだけど、私もそれは上手くできていない。

リーガンの場合、「現実を見つめる気がない」と思った。理想ばかりを追いかけて手に入らない事を嘆く。彼は街を歩けばサインを求められ、一緒に写真を取ってもらえないかと言ってもらえるほど人に認識されているのにそれに気づいていない。

「存在していない」という事について話を戻す。「自分が存在していない」と思う時はどういう時だろうと私なりに考えた。話を無視された時、努力をしたけど褒めてもらえなかった時、飲み会で「なんだか一人だけ浮いているなあ・・・」と思う時。

リーガンの場合の「自分が存在していない」というのはこの場合『努力をしたけど褒めてもらえなかった時』に当てはまる。

彼は存在しているが、自分の中に自分が存在していないのだと思う。彼は他人に褒めてもらったときだけそこに存在する事ができる。

たくさんの人に愛されているのに物足りない、もっとほしいと嘆くのは「愛を感じ取れない」からだと思った。彼の中に「自分」はいなく、いるのは20年前にヒットしたバードマンだ。彼が愛を感じ取れなくなってしまった理由には大ヒットしたバードマンのせいで感覚が麻痺したのではないか、と私は思う。

この映画の中に出てくる人たちは全員愛に飢えているような気がした。

映画のほとんどが長回しで、音楽は素晴らしかった。

可愛い女の子が出ているな、と思ったらエマ・ストーンさんでした。

こんなに文句みたいな事をダラダラ書いたけど、私はバードマンはすごく良い映画だと思います。

 

 

大人になるってきっと優しくなる 事だと信じていた

たくさん会いたい人がいる
たくさんやりたいことがある
たくさん見たいものがある
たくさん読みたい本がある
それだけでもう私は良くて
そう思える毎日が大好きで
手放したくない

自転車。

唐突にこの間「自分は20を超えた人間なんだ」と自覚される出来事があった。
今まで私は自分の肉体と心の年齢が比例していないな、という感情があってなんだか宙ぶらりんな気持ちでいた。
私は本当に大人になったのだろうか、と。

その日は晴れた日で、私はでかけるためにバスにのった。座ろうと思っていた席の後ろに部活で使うのだろうかなと思う、なんとなく自転車を折りたたんで入れたのかなと思わせる大きな袋を置いていた。それは大きくて少し邪魔だった。男子高校生が「すいません、どかしますんで」と話したが私は少し避ければ目的の席に座れたので「別に、大丈夫だよ」と話した。

その時に私は、ああ男子高校生から私を見たらお姉さんなんだ。もう子供じゃないんだとぼんやり思った。

私の次におばあさんが乗ってきて「あら?自転車部?」と男子高校生に話かけていた。「そうなんです。」と恥ずかしげに彼は答えていた。「いいわねえ」とおばあさんが言ったが少し彼はシュンとしながら「部活は楽しいんですが、こういうバスとかに乗る時に移動が大変で周りに気を使わせるのがちょっと…」と口籠っていた。
私はその会話を聞きながら、小学生の時に電車通学をしていた時があってランドセルを周りの人にとても疎ましがられたのを思い出していた。彼もそういう思いをしてきたのだろうなと感じた。

私は小学生の頃に高校生がうんと大人に見えたし、きっと高校生からしたら私は大人に見えるのだろうと思った。

だからどうしようとかはないけど、肉体と心の一致があってなんとなく気持ちがよかったし、自覚的になれた。
でも私は他の23歳より子供っぽいと自分では思う。